140519_enosui_01140519_enosui_02都心からのアクセスが良く、独自のテーマによる飼育展示でマニアな生物好きにも評価が高い水族館のひとつ、新江ノ島水族館(神奈川県藤沢市)。
一般的に“えのすい”の愛称で知られる同館では、クラゲや深海生物の飼育展示やイルカのショー等が楽しめ、最近人気の深海生物“ダイオウグソクムシ”の限定ぬいぐるみが発売された事も手伝って、先日の大型連休で足を運んだファンも多いのではないだろうか。

この新江ノ島水族館では、今春から生物マニアなら思わず「凄い!」と驚くような魚の展示を開始している。その魚の名前はシラス。スーパーでもお馴染みの魚だし、江の島周辺の名産品でもあるため拍子抜けかもしれないが、少なくとも筆者が知る限りシラスの飼育展示を実現した水族館は世界で初だ。

同館が力を入れているテーマのひとつが食卓にあがる魚であり、徒歩圏内には釜あげシラスや生シラスを提供する飲食店も多く、時期によっては地引網で大量のシラスが獲れることもある。その意味では“えのすい”がシラスを展示するのは当然で、目の前の海から生きたシラスを調達して展示すれば良いと考えるだろう。だが、シラスの飼育展示は、そんなに簡単な事ではない。
今回は特別に新江ノ島水族館のバックヤードを取材する機会をいただき、世界初となるシラス飼育展示の舞台裏を詳しく取材したので、そのレポートをお伝えしたい。

本題に入る前に、シラスについておさらいしておこう。身近な魚だけに今さらと思う人もいるだろうが、しばらくお付き合いいただきたい。
そもそもシラスとは何だろう。御存知の方も多いだろうが、海に“シラス”という名前(標準和名)の魚がいるのではなく、シラスはカタクチイワシやマイワシなどの稚仔魚(ちしぎょ)を指す言葉だ。稚仔魚とは鰭の条数や脊椎骨数がほぼその種の特徴を示すまでの段階である“稚魚”と、卵から孵化して稚魚に至るまでの“仔魚”を意味する。
最近では混じりものをきれいに取り除いたシラスも見かけるが、スーパーの店頭に並ぶ「シラス干し」にはイワシ類以外の稚仔魚や甲殻類の幼生、イカやタコの子供等が混獲された状態だ。そうした混じりものは“シラスモンスター”と呼ばれ、関連書籍も発売されている。生き物好きの子供たちにとっては、夏休みの自由研究の格好のテーマになるだろう。
余談ではあるが、大きめの稚魚が入ったシラスではマイワシの場合には特徴的な体側の黒い斑点が現れている。イワシの種類を区別した“シラス”は流通していないが、食通の間ではマイワシのシラスが最も美味と言われているので、体側に黒い斑点が入ったシラスが手に入ったら運が良いと言えるかも。

前置きが長くなるが、現在“えのすい”で展示中のシラスについても説明しておこう。
筆者が取材に訪れた際、水槽では水流に身を委ねて漂う小さなシラスと、ほぼ成魚になったカタクチイワシが展示されていた。時々身体をくねらせて泳ぐ孵化したてのシラスは可愛いのだけど、スーパーの店頭で売られているイメージとはちょっと異なるかもしれない。

一般的なシラス干しの大きさは1~2cm前後だろうか。同館の展示でもイメージ通りのシラス展示に注力しているそうだが、来館者がいわゆる食卓サイズのシラスをいつも見られるようになるのは、もうちょっと先になりそうだ。
こうした状況の根本は、シラスが移動時の振動や衝撃に弱いという特性に由来する。イワシは元々移動に弱く、水族館で展示するのが難しいのだが、シラスの段階では輪をかけて移動に弱いのだ。目の前に広がる相模湾は豊かなシラスの漁場(今年はシラスが豊漁らしい)だが、漁獲された元気なシラスを水槽に移しても殆どが死んでしまう。

では、シラスを水族館で展示するにはどうすれば良いのだろう。答えは水族館でイワシの卵を採り、人工的に孵化させるしかない。世界初の飼育展示となる新江ノ島水族館のシラスは目の前の海で獲れた個体ではなく、水族館生まれのカタクチイワシの稚仔魚なのである。


ここからが本題。新江ノ島水族館のシラス展示を支える舞台裏(バックヤード)で、どのようにシラスを育てているかレポートして行こう。
今回編集部を案内していただいたのは展示飼育部学芸員であり、海洋科学博士の伊藤さん。伊藤さんによれば世界初のシラス飼育展示に向け、世界で初めてカタクチイワシの繁殖から大量育成に成功した水産総合研究センターのアドバイスを受け、昨年からカタクチイワシの繁殖・育成の研究に取り組んで来たそうだ。

伊藤さんが最初に案内してくれたのは、カタクチイワシの成魚(親)が泳ぐ水槽だ。上から水槽を覗きこむと、マイワシのような立派な大きさの親魚が元気に泳いでいる。伊藤さんの説明では飼育下で特別なケアをすることで、季節を問わず産卵を促すことができるそうだ。そのため水槽の水を、併設した採卵用水槽に循環させ、卵を集めている。
カタクチイワシが季節を問わず産卵しているというのは筆者も初めて知った。相模湾のシラス漁は毎年正月から3月10日頃まで禁漁期間に入るため、この時期にイワシが産卵するとの認識だったのだが、シラス漁で混獲される鮎の稚魚を保護する目的で設定される禁漁期なのだそう。
確かに相模湾に繋がる相模川や酒匂川は鮎釣りの名所だが、天然鮎の保護にシラス漁が関わっているというのも興味深い。

こうして集められたカタクチイワシの卵は、別の孵化用の水槽に移される。飼育水を見ると緑色に色付いていて水替えを怠っている金魚の水槽のようだが、これはシラスの餌の餌が豊富に含まれているからだ。
シラスの餌はワムシとアルテミアという動物プランクトンである。特に孵化直後のシラスにはワムシを与えているが、このワムシを培養するための餌にクロレラを用いている。細胞にクロロフィルを含むクロレラは緑色で、人用の健康食品としてもお馴染みだ。
ワムシの状態を良く保つためにクロレラを入れているため、飼育水が緑色に色付いていているのだ。天然のシラスは健康を気にして餌を食べていないだろうから、生活環境としては自然界よりも良いのかも?
生まれたばかりのシラスはウロコが無く透明な身体をしているが、2.5?~3?ほどから色が付き始め、肉眼でも確認しやすくなってくる。小さなシラスは遊泳力も弱くプランクトンと同じように水中を漂っている個体が多いが、飼育水槽を眺めていると時折身をくねらせて泳ぐシラスを見つける事ができた。

こうしてバックヤードで生まれたシラスは成魚(カタクチイワシ)まで育てられ、次世代の採卵用の親としても利用される。筆者が確認しただけでも、親魚の飼育から稚魚の育成、餌の培養を含めると、バックヤードだけで7本の水槽を運用していた。
飼育のプロが充分な設備を用意して取り組むプロジェクトだが、伊藤さんによれば、これでも卵から親まで育つ確率は1割ほどで、現在は2割の生存率を目標に日々研究を重ねると共に、一般の来館者が目にする飼育展示水槽でも、わかりやすいサイズのシラス展示に向けて試行錯誤を続けているとのこと。

庶民の魚の代表的存在であるイワシを人の手で増やすためには、これだけの技術が求められる事実に驚くと共に、自然の偉大さを再認識せずにはいられない。
新江ノ島水族館に足を運んで世界初のシラス展示を楽しんだ時には、近隣で地元のシラスを食べたりお土産に買ったりして、海の恵みに感謝するのもお忘れなく。

新江ノ島水族館
http://www.enosui.com/

 

新江ノ島水族館 展示飼育部 魚類チーム 学芸員 飼育技師 伊藤 寿茂さん

新江ノ島水族館 展示飼育部 魚類チーム
学芸員 飼育技師 伊藤 寿茂さん

採卵用水槽

採卵用水槽

孵化・稚魚育成用水槽

孵化・稚魚育成用水槽

専用水槽で餌を培養中

専用水槽で餌を培養中